青森二泊三日の旅 紀行 2016.9.11~13
早川加代子の主宰する「ウォルドルフ人形教室」にはるばる青森から出席される工藤寿子さんから「ぜひ、青森にいらしてください。ご案内します。」とお会いするたびにお声掛けいただいていた。どうやら機が熟したのか、二泊三日の旅に出かけることになりました。
青森滞在中はまるっぽお世話になり、十分楽しんだのですが、それとは別に、いろんな方との出会いの不思議、楽しさが次つぎ思いだされたのです。これだけ一気に出会いの不思議が湧きでるように思いだされたのは初めてのことです。
まず思うのは、なんでそんな遠い青森から家内の主宰する教室(ウォルドルフ)なの?という素直な疑問です。近くにいっぱいいらっしゃるのに??
きっと理屈を超えたところでの楽しさやぬくもりがあるからなのでしょう。これぞ人生といったところでしょうか。
これこそが私どもを青森に出かけさせることになったのですが…。
というと、ウォルドルフ人形との出会いを自然に思い出すことになります。
私がライフワークとして全精力をあげて取り組もうとしていた「連珠」の国際普及。1981年12月、本格的な国際普及の第一歩をスウェーデン・ヨンチョピングにトミー・マルテルさんを訪ねることになりました。当時はアンカレッジ経由ですから23時間もかかったでしょうか。
この訪問が地元紙に大きく取り上げられ、同地にお住いの日本人が多く表敬にお越しくださいました。食事をご一緒したり、日本の〈今〉をお尋ねになったり、疲れた心身を癒やしていただきました。皆さん大歓迎してくださったのを今でも鮮明に覚えています。
また、ヨンチョピング空港に立ち寄る日本人は極めて少ないらしいですが、帰路、そこで働くパーソン浜子さんに声をかけられ、「新聞でお越しになっているのを知っていました。お会いする機会があればいいな、と注意して見てたんです。お会いできてうれしいです。」とプレゼントまでご用意してくださっていました。
走馬燈のように浮かんできました。
ところで、その時のスウェーデンの方々との交流に通訳としてお世話になったのが横浜出身の在ス、佐々木省三さんでした。2回目にお会いするのはそれから4年後、お互いファミリーでの出会いになります。
その間は手紙でのやり取りでは幾度もお世話になりましたが、88年の春、突然「マルテル会長からのメッセージを預かってきました」とわざわざお届けになったのです。
しばし懇談。マルテルさんのこと、スウェーデンの連珠界の現状、在ス日本人の方のその後などを楽しくお聞きしていると、「ところで」と切り出されたのが、「スウェーデンで普及している人形を日本で広めようとしているのですが、どなたか心当たりはありませんか」と言い出されたのです。
これがウォルドルフ人形との出会いで、その佐々木省三さんこそ、ウォルドフル人形の主幹 佐々木奈々子さんのご主人その人です。この項については「早川加代子の人形との出会い」をご覧いただきましょう。
その後のことについてはすべてを割愛して青森紀行に入ります。
初日 朝6時に自宅を出て、新幹線を乗り継いでそのまま弘前に直行。工藤さんのお迎えを受けて、さっそく「ねぶた村」へ。
ねぶた村を見学して回るうちに初めてねぶたを見た20年も前のことが強烈に浮かんできました。というのは、その時の一つに「不動明王」の作品が展示されていたのです。不動明王は、師と仰ぐ嵯乃庭慈泉先生に「早川さんはお不動産を描きなさい」と言われて久しいものがあった頃です。展示されている作品に不動明王の解説が簡単に記されていましたが、これを読んでいるとどういう訳かスッーと体に入り込んできたのです。
実際に、お不動さんを描き始めるのはさらに日数を要するのですが、この時に、いずれ描けるようになりたい、きっと描くことになるだろうという意志がジワッと湧き出たのです。
この思いが、やがてお不動さんを描き、水彩画に親しむようになるのですから、人生は不思議かつ面白いものです。
次に回ったのが弘前城。お城の引っ越しで有名になりましたが、この地の神山・岩木山を背景に弘前城を納めるのは今だけのシャッターチャンスだそうです。
それにしても石垣の修理のためにお城をコロで引っ越させて、修理が済めば元に戻す。なんという壮大な計画なのでしょう!
ねぶたと津軽三味線
岩木山が雲に隠れていますが…
マップを見ていると羅漢さんが近くの長勝寺におられると記されています。工藤さんに予定を変更していただいて長勝寺に回っていただくことにしたのですが、なんとも残念。2時閉門だったのです。いかにも2時の閉門は早すぎます。プンプン。
日ごろ、名跡、三十三間堂の閉門が4時、観光に来た人が実に困惑されている光景を見ることがよくあり、その都度「なんとかもう少し観光客のために配慮してあげられへんのかなぁ」とひとり呟いていましたが、本気でなんとか配慮していただきたいと思ったものです。
この後、リンゴ園に回り、夜は工藤さんにご招待いただいて、地元料理を味わい、地元の名酒「田酒」を楽しみました。
2日目 高速旅客船「ポートラスター」に乗船する予定でしたが、この日は波が高く残念ながら運航中止。海岸沿いを散策、青森ねぷた(ワ・ラッセ)を見学。津軽三味線の演奏もあり、わずか1枚だけですがねぷたの紙張り体験をしました。
青森 ねぷた
張り紙体験
この後、土曜会(以前に前原誠司さんらのグループで研修会がもたれていた)でご一緒していた沼田廣さんにご挨拶だけでもさせていただこう、と訪問しました。当時は京都工場におられ、青森に戻られて久しくなります。
穏やかで魅力ある方だったのでぜひお会いしたいものだという思いで、半信半疑で会社をお訪ねすると真正面の見えるところにいらっしゃった。偶然とはいえすごい。
「アレッ! なんで早川さんが…」とすぐに立って迎えてくださり、しばし懇談の機会を与えていただいた。ラッキー。
でも本当はそんな簡単に訪問できる方ではなかった。かなりの規模の会社を経営されており、青森経営者協会会長などの要職を務めておられる多忙な方だったのです。
でも面白いもので、ご自宅が工藤さんのご自宅のすぐ近く、斜め前で見えるところであり、共通の知人も数多くおられることが分かりました。また、沼田さんのご子息が、早川光志の2年後に公認会計士を取得され、当時、早川光志の勤めていたトーマツ八重洲オフィスに入所されてきたのですから~。もちろん知らない中での偶然です。
閑話休題。
96年、当時生涯のライフワークとして取り組んでいた連珠でしたが、この年、日本連珠社理事長に就任しました。このため、有力地域に就任挨拶に出かけたのです。熊本、広島、神戸、浜松、富山、横浜、東京、そして青森と。
当時、青森支部長をして活躍されていたのが荒谷光一さん。同じ税理士でもありました。
地元紙『東奥日報』に連珠の問題を出稿されており、新聞社とも顔なじみだったようです。ご一緒に東奥日報にごあいさつに出向き、「早川理事長 来たる!」などの記事となりました。
その折に、三内丸山遺跡にも案内していただいたが、「梅原猛 教授来る!」というポスターが掲示されてあったので、「梅原先生もきたはるんや。せっかくやし、梅原先生の著書を買っとこう」とばかりに買い求めました。とその帰路の新幹線でばったり梅原先生と同席になったのです。
手には三内丸山遺跡で買い求めていた先生の著書があります。サインをいただき、記念の写真をご一緒していただき、東京まで次の構想である新歌舞伎「大国主命」をとっぷりお聞かせていただいたのです。大ラッキー。
翌年、「大国主命」が初上演となった東京歌舞伎座(だったと思う)にわくわくする思いで鑑賞に出かけたものです。こんなことも思い出していました。
また、私の務めることになった日本連珠社の総裁は、青森の津島雄二先生(衆議院議員)だったのです。そういった意味で、今回、太宰治館に出向かなかったことはちょっぴり悔やまれます。
3日目 早くに出かけて黒石市川部に「田んぼアート」を見学に行きました。すごい。
稲穂でアートを描くのです。写真を見ていただく以外に説明のしようがありません。
ここに描かれているアートがすべて生育した稲穂なのですヨ。どうしてこんなことが可能なのでしょう。ただただ驚くばかりです。感服しました。一見の価値ありです。
この後は、御所川原の立ちねぷた、津軽こけし館を見学。途中ではアップルブランディの利き酒をする機会もあり、フルに楽しんだ3日間でした。
田んぼアート
立ちねぶた
帰宅は夜の11時を回っていました。まさにフル活動の3日間。それにしても出会いの楽しさ、出会いの不思議にとっぷり身を置いた3日間でした。
工藤さん、本当にありがとうございました。今度はねぶた祭りの開催に合わせて出掛けたいなぁーと話し合っています。