末次一郎先生 お別れの言葉(談)
末次一郎先生は、海外青年協力隊の生みの親であるとともに、財団法人育青協会理事長、社団法人日本青年奉仕協会会長、新樹会代表幹事などの要職を兼ね、政財界の'頭脳'としてわが国になくてはならない方でした。小生が理事長を務める社団法人日本連珠社の名誉会員でもありましたが、個人的にも大尊敬する方で、あつかましくも、おそるおそる拙著『変身そして創造』の帯に推薦文をお願いしたところ、快く引き受けていただき感激しました。 平成13年7月、悲しいお別れになりましたが、同年9月、京都でのお別れ会に「お別れの言葉」を述べるように指名されました。この日、お別れを述べられたのは、野中広務衆議院議員、桝本頼兼京都市長、岡本道雄京都大学元学長とそうそうたる方ばかりで、相当な緊張の中でお別れを述べさせていただきました。
私のような者が何か場違いな気もしますが、ご指名ですので、末次先生をお慕いしていた一人として先生の思い出をお話させていただきます。
先生との出会いは84年11月、東京の神社会館で行われた連珠名人戦の時でございます。 どのようないきさつでご観戦にお見えになったかは存じませんが、私は挑戦者であった門下生の介添人として出席していた訳でございます。
先生は30分ほどご観戦になりましたが、まったく一手も動かないまま退席。1階の喫茶ルームでしばし懇談された後「一手ぐらい動くところを見たいなぁ」とおっしゃって、再び対局室に戻られましたが、依然として一手も打たれていませんでした。
「連珠というのは、そんなに厳しいものかね」と首をかしげながら、お帰りになったのを、なぜか、姿、しぐさ、言葉、座られた席まで鮮明に覚えています。
連珠というと皆さん何かな、と思われるかも知れませんが、わかりやすくいえば、五目並べであります。
日本の大切な顔ともいうべき末次先生が、一番庶民的な娯楽であるといってもよい五目並べに、ご関心をお持ちいただき、我々を絶えず声援されていたのであります。
不思議な気もしますが、世界的でグローバルな発想と、ひとり一人を温かく見守るミクロの同時進行は、先生の真骨頂ではないでしょうか。
私ごとで恐縮ですが、24年前から「連珠を世界に!」を掲げ、本気で連珠の世界普及を目指してきましたが、末次先生には、89年8月、京都で催された第1回連珠世界選手権にご来賓としてお越しいただき、この頃から少しずつ直接お話する機会を得るようになっていきました。
89年末、レニングラードの催しに参加するとき「何か困ったことが起こったら、私の名前を使って総領事にお願いしなさい」 とお声を掛けていただき、恐縮していましたところ、会場に着くと総領事がお見えになり、私どもを歓迎してくださいました。
私どものこんな小さな民間交流にも、実に繊細で温かい目を注いでくださる。私どもの活動がどんなに、ハリのあるものになったか、計り知ることができません。
この頃にはすっかり先生の魅力に心酔していましたので、もう少し近づきたい、という思いと、 ご多忙の先生を少しでも煩わせてはいけない、という思いが交差して、スッキリした動きをしなかったのが 今となっては悔やまれてなりません。
4年前、サンクトペテルブルグでの世界選手権のとき、思い切ってお願いを申し出ました。我々は中国への普及にも成功していましたが、この中国代表が前回の閉会式で「連珠は中国で生まれたゲームです。我々のゲームを育ててくれて有難う」と言ったのを見逃すわけにはいきませんでした。
連珠を愛する世界の仲間は、単純でシンプルなゲームを100年以上に渡って育ててきた日本人に瞠目し、日本人の文化感と知恵に驚嘆して、日本人を愛し、こよなく日本を好きだと言ってくれます。こんな素敵なことを簡単に放棄するわけにはいきません。
末次先生にこのいきさつを説明して、公式の立場の人が、公式の場で、さりげなく、しかし堂々と「 連珠は日本で育ってきたゲームであり、日本のゲームである」と主張していただくわけにはいかないか、とお願いしました。 先生は「よし、わかった」とおっしゃって、領事館に連絡を取ってくださるとともに外務省とも調整して下さいました。
その結果、開会式の冒頭、森泉総領事にご挨拶に立っていただくことになり「連珠は日本古来のゲームであり、世界友好に果たしている喜びを多とする」旨の発言を頂くことができました。お陰で世界の仲間は異論をはさむことなく、21世紀の新しいスタートを発祥の地、京都で集まろうという流れになっていきました。
この8月に開催した世界選手権京都大会は12カ国1地域から外国人80名が参加して、華々しく開催することができました。
今年の3月27日、末次先生にご挨拶にお伺いしたとき、「12年ぶりですか。一度ゆっくり京都に行くのもいいなぁ」とおっしゃっていただきましたので、ひょっとしたら、お越しいただけるのではないか、と期待していたのですが…。
97年11月、日本経済新聞文化面に「連珠で国際交流」という記事が大きく掲載されましたが、そのとき先生からお便りを頂きました。
これより先の96年12月、私の著書(注・『変身そして創造』)を発刊するに当たり、 あつかましくも、おそるおそる本の帯に先生の推薦をいただけないでしょうか、と申し出たところ、 ご快諾いただいたばかりか、ここでもお便りをいただきました。
先生の教えに触れたい思いで、幾度か東京にも出かけたものでございます。どなたかと懇談されている席に出くわし、邪魔にならないように軽く頭を下げると「早川さん、いらっしゃい」とお声を掛けてくださり、「この君はねぇ、連珠を世界に広げるために一生懸命がんばってくれているんですよ」と紹介していただいたこともたびたびでした。
先生のご活動から見れば、私どもの活動はなんとも小さいものであるにも関わらず、いつもやさしい目を注いでくださる。先生とご一緒に写した写真をいつも飾り、先生の意に背かないようにしてきました。お別れをした今も、まったく変わることはありません。
先生とお別れしたのは残念至極でありますが、先生の教えは胸に深く刻んでいます。大切に守りながら、小さくても、社会のため、日本のための活動を続けてまいり、ご恩に応えたいと思っています。
これからも温かく見守られていくような気がします。本当にありがたいことだと思っています。取り留めのない話になったかもしれませんが、先生への追悼の言葉とさせていただきます。