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「連珠を世界に!」ロマンの旅 3

プロロ?グ

前回はサプロノフさんとの出会いを紹介した。今回は『今日のソ連邦』(80年12月号)に掲載されたサプロノフさんのレポ?トを転載させていただく。

歩き出したソ連の連珠

ジャ?ナリスト モスクワ連珠クラブ会長 ウラジ?ミル・サプロノフ

スポ?ツと文化に国境はない、と人が言うのを聞いて、私もそうは思っていたが、今になってその言葉の真実性をしみじみかみしめている?京都に住む連珠の早川嘉美八段が、ソ連の棋士との試合の印象を、雑誌『連珠世界』にこんなふうに書いている。

私が早川氏と知り合ったのは3年半前、大阪で開かれた‘建国60周年記念ソ連邦展覧会’(77年7?8月)の時だった。そのとき私はプレスセンタ?で働いていた。私たちをひき合わせたのはチェスだった。いきさつは忘れたが、関西地方のチェス協会のグル?プが親善試合を挑んできたのだ。そのメンバ?に早川氏の友人の棋士(連珠家)達富弘之氏がいた。その人がこの日本の古い競技、連珠に興味があるのを知ると、当時の日本連珠社京都支部長を務め、しかも日本連珠選手権第2位の早川氏に私のことを話してみると約束してくれた。

間もなく私は早川氏に引き合わされ、手合わせを願うことになった。到底かないっこないと思いつつ、私は大胆に布石を始めた。対局すること約1時間半、五分五分の局面を迎えた。ここで私は、引き分けを予想して楽しんでいるうちにミスをしてしまった。敵の白を、左側で殺してしまう代わりに、私は右側で責任のがれの41を打ってしまったのだ。日本の名手がいかに巧みにこの機をとらえ、四々の禁手で私を追い込んだかを見ていただきたい。(図は末尾に)

このあと京都に行き、早川氏の小じんまりした居ごこちのいい家で、他国への連珠の普及の見通しについて論じあった。当時日本人は外国の連珠家たちについては何も知らなかった。だから、何でもないないこの訪問が、やがて「京都新聞」に、‘連珠海を渡る’という意味深長なタイトルで、写真ともども紹介されたのも、なるほどとうなずける。帰りは早川氏と令息が私を駅まで見送ってくれた。汽車が出たあとも2人は長いこと手を振っていた。わたしは数冊の連珠読本と早川嘉美のサイン入りの連珠盤2枚を手に、両国のスポ?ツマンたちをずっと以前から結びつけていた友情のきずなに、もう1本新しい糸が現れたのを強く感じながら京都を離れた。

間もなく、東京に行く機会があり、もちろん私はその折りを利用して新宿の閑静な一角、弁天町にある日本連珠社に立ち寄った。日曜日であった。1階には会議室、2階には手合わせのための部屋がある小ぢんまりした建物は畏敬すべき連珠家たちでいっぱいになっていた。

その日、私は三上繁太郎(九段、日本連珠社理事長)、山田芳秀八段、鈴木金秀七段と対局した。勝つチャンスはこれっぽちもなかったが、高段者との対戦から受けた満足はとても大きなものだった。日本の連珠家たちはソ連の連珠愛好家についての私の話に熱心に耳を傾けた。私は‘日本連珠サ?ビス’の坂田吾朗八段とも面識を持った。後日、この坂田氏は通信戦でソ連の連珠愛好者たちの最初の対戦相手になり、3対1でその連珠通信戦に勝った私を初段に推薦してくれた。こうして日本以外の地で初めての有段者が誕生することになる。その後次々とモスクワっ子の有段者が出て来る。

「連珠を世界に!」ロマンの旅 3

それは1980年のことだったが、10年前を振り返ってみると、その頃ソ連には(というより、以前から)、連珠を簡単にした遊びで、黒に三々、四々……長連などの禁手のない‘五目並べ’(三並べ)の愛好者が数多くいたのに、連珠愛好者は私と友人のアレクサンドルフ・トドシェフの2人だけであった。この‘五目並べ’はロシア語で‘クレスチキ・ノ?リキ’と呼ばれており、その意味は‘果てしなき野原の中の+(クレスチキ)と?(ノ?リキ)’ということである。普通この遊びは、ます目を利用して+と?でこまをすすめながら遊ぶためにこの名がついたのだ。‘+と?’が連珠に変わるきっかけを作ったのは「ソビエツキ?・スポ?ツ」紙(1979年9月25日付)の‘知識への招待’欄に掲載された私の短い記事‘連珠をやってみよう’だった。多くの読者から手紙を受け取ったが、その中に‘それじゃやって見よう!’と書き記したモスクワっ子の大学生――アレキサンドル・ノソフスキ?、ニコライ・アレキサンドルフ、ビッチェスラフ・ビロ?ベルの3人がいた。それから間もなく私たちはモスクワ連珠クラブを組織した。新たに数人が入会したが、主に学生だった。クラブが出来たので人と人との連絡が密になり、レニングラ?ドやタシケントの愛好者グル?プの独立を助けることにもなったし、他の都市や村の一人ぼっちの連珠家たちは私たちと活発に文通するようになった。

モスクワ・クラブ創設のニュ?スは日本の新聞のも載った。私たちは坂田吾朗氏から著書の寄贈も受けた。日本連珠社は私たちの試合についての情報と引き換えに月刊誌『連珠世界』を6号分ずつ送ってくれることになった。同誌の1980年8月号には、いつも高段者の結果が載る目立つ場所に、モスクワで行われた第1回個人戦の模様が掲載された。参加者は全部で8名という小規模なものだったが、この最初の大会のことは忘れることが出来ない。理論をさらに学び、模範的試合を見せるために、私たちはこの種の競技にとってはかなり奇抜なやり方を取った。対局前の1週間前に抽せんで基本珠型を決めたのだ。

日本の名連珠家たちの創造的遺産と理論的研究は豊富にある。これらが私たちにどれほど大きな意味を持っているかは言うまでもないだろう。だが、踏みかためられた道のみを行くのは私たちのやり方ではない。クラブのメンバ?は時として競技に対し、連珠の常識と相容れない考えを持つ場合がある。例えば、日本では、若干の基本珠型ではいかに抵抗しても黒が勝つのが当然とされている。私たちはそれを調べてみることにした。その結果、この場合の防御の必ずしも皆無とは言えないことが分かった。だから私たちは、日本で採られている、白にとってのみ有利な一定の珠型を黒に強いるのは妥当ではない、という立場をとっている。これは全体として、競技の進歩のつながるように思うのだ。正確な防御の道を地道に探すのではなく、棋士はわずらわされることなく、あれこれの基本珠型を拒否できるのだから…。

私たちは探求の真の価値は時が示してくれるだろう。今のところ、これらの探求の結果は連珠通信戦に利用されており、成果はなくもない。日本人棋士対ソ連の連珠愛好家との対局は、駒木悠二三段が2対3、坂田吾朗八段が8対13の成績で、これよりいい成績を収めたのは早川嘉美八段だけだった。早川氏は私との対局で3戦つづけて勝った。

私たちのクラブでは日本の連珠家.たちとの交流拡大を計画している。ソ連のチ?ムを日本に派遣することも考えている。近いうちにモスクワ連珠クラブはソ日協会の団体役員になる予定だ。第1回連珠通信世界選手権を日本連珠社に提案した。この大会には日本をはじめ、ソ連、スウェ?デン、オランダ、その他の国々が参加することになろう。

1980年9月に、私の‘+と?から連珠へ’という記事が「科学と生活」誌に掲載されると、編集部には読者からの反響が続々と舞い込み、モスクワ連珠クラブの会員数も10倍に増えた。数十の都市で連珠クラブが結成された。連珠愛好者たちの数の多さに驚いたが、そればかりでなく水準の高さにも驚かされた。初段?二段用の課題をこなせる人が大勢いたのだ。

早川嘉美氏はある手紙で、「体操の世界選手権で日本の男子チ?ムはソ連に負けましたが、連珠の対局でそうなるのはいつのことでしょうか」と書いてきたが、この問いに答えられる日はそう遠くないだろう。

80年12月『今日のソ連邦』

下記は京都連珠会発行『珠友』100号記念号に寄せられたサプロノフさんからのメッセージ。

80年1月

京都連珠会発行『珠友』100号記念号に寄せられたサプロノフさんからのメッセージ