「連珠を世界に!」ロマンの旅 1
プロローグ
このページにたどり着いた方には、いまさら「連珠」の何たるかを説明するまでもないだろう。「競技化された五目並べ」 これが、マスコミ等に一言で理解していただくために考えた言葉である。
77年、モスクワ在住のロシア人、ウラジミール・サプロノフさんとの出会いが、大げさにいえば私の人生を創ったといっても過言ではない。この出会いが、私に「連珠を世界に!」をホンキで掲げる人生を歩みだすことになった。
「連珠」から身を引いた現在、いまさら、懐古することもないが、連珠の世界普及の道のりが霧散してしまうのは、少し“もったいない”気がする。そこで、できるだけ一般誌紙に発表したことを中心にまとめることにした。
もとより、早川嘉美個人から見た世界普及のロマンであることをあらかじめお断りしておきたい。できる限り注釈を少なくして、その当時の発表を経過順に紹介していくこととしたい。つまり、現在の心境には極力触れないで進めたいと思うのである。
なお、感想はいらない。批判もいらない。無許可の転載は一切お断りしておく。
*50歳まで、早川光勝の号を使っていたが、50歳を契機に「早川嘉美」の本名に統一した。その都度記すのも面倒なので早川嘉美で統一して報告したい。
連珠の国際普及にかけるロマン
連珠を国際ゲームとして普及したい、という思いを掛けた人は私の知る限りでも数多い。第一世名人 高山互楽師もその一人といっていいだろう。その著書『聯珠真理』表紙において英訳を記載していることでもはっきりわかる。
日本国旗協会監事だった斉藤聴石氏はいろんな国際交流の機会を見つけて、せっせと講演されていたのを知っている。浅野皓平さんは海外滞在中に手作りの英語版入門書を著されていた。
私が携わる直前では、何といっても井川亘さんが大功労者である。井川さんは世界に呼びかけた『THE RENJU QUARTERLY』を私費で発行した。もう一人は、坂田吾朗さん。坂田さんの連珠普及に掛ける思いは私がここで記すこともないだろう。その目は世界にも向いた。井川さんの協力を得て、『LET ENJOY RENJU』を著し、世界に発信した。
77年8月、ソ連のサプロノフさんと出会う。この出会いが私の人生を劇的に変えた。次回から具体的なロマンの旅をご一緒したい。