「連珠を世界に!」ロマンの旅 39
中国普及の旅第2弾/各紙がこぞって特集記事
中国へ普及の旅 第2弾
1995.10.7~11、3年ぶりに中国・北京へ普及の旅に出かけることになった。
前年の世界選手権エストニア大会でリーダーの那威さんのハッスルぶりを目の当たりにしていたが、一日も早く自身の目で確かめたいと思い続けていた。
北京に降り立った我々をまず驚かせたのは、熱狂的なファンに囲まれたことであった。我々の一挙一足をビデオに撮る、カメラに収めるといったファンに囲まれた。前回との違いを瞬時に感じたのは言うまでもない。
この時のレポートを京都新聞の報道でご覧いただこう。
(この項は、エッセイ「世界 見つめはじめた中国連珠 3年ぶりの北京」に掲載しています)
http://www.success-simulation.com/essay/index.html
地元新聞に相次いで報道される =地元北京の掲載紙より
(翻訳したものを残していたが、一部紛失したので不明=翻訳分は原文のまま)
【京城又見“連珠”】
“連珠”がまた北京にやってきた -早川嘉美さんが技術を伝授
日本八段連珠棋手の早川嘉美さんは八日に中国棋院で北京の連珠ファンたちに技術を伝授した。
早川さんは国際連珠聯盟副理事長で、日本連珠社副理事長でもある。三年前、早川嘉美さんは北京を訪ねたことがあり、そして今日授業した中国棋院で連珠ファンに講演もしたことがある。中国棋院のある責任者の話によると、あの時広告を出したが、しかし受講者はわずか四十人であった。ところが、今日の中国棋院の二階の講堂に二百人あまり…
ある子供の親は連珠が学びやすいし、面白みもあるので、子供たちにとって健康で有意義のものだという。
【妨害】
交流、試合を通して、日本連珠名人は中国の連珠が強いと言った。
中国棋院の講堂は人でいっぱいになっている。演壇で棋譜を並べて解説している。演壇に立っているのは日本連珠の名人たちである。
日本では五目並べに対して正式な呼び方は連珠である。正式の段位制度もある。日本の棋手は世界タイトルマッチで三回連続してチャンピオンを獲得したことがある。今回“中国棋院”の招きで、日本の連珠名人ー九段の三森政男さん、八段の早川嘉美さんと相原寛さん等が北京で国際で通用する連珠の試合規則とそれなりの技術を伝授することになった。北京の二百人あまりの連珠ファンが興味深く受講した。
授業する前に早川嘉美さんは国際連珠聯盟を代表して“京都五子棋院”の総コーチ那威さんを会員に受け入れ、証書を渡した。その上、中国棋院に連珠の専用棋具を贈った。講師の早川八段はまず大盤に練習問題を出して、受講者に解き方がいくつあるかを聞いたら、わずか八才で、しかし那威さんに将来のチャンピオンのたまごと誉められた邵小冬さんがいち早く演壇に上がり、ちっともためらわずに九種類の解き方を並べた。早川先生は邵さんの頭をなでながら大いに誉めて、一冊の碁の本をあげた。続いて、早川先生はまたいくつかの問題を出したが、驚いたのはほとんどの回答者が皆一発で解けたことで、その中で三森九段が何年間も教えてきたが、しかし、今までまだ一発で解けたことのない一問も含まれている。一問を解いたら、一冊の本が贈られるので、早川先生はそのあと誰かが演壇に上がってきたら、先に本を取りに行くようになってしまい、皆に大笑いをさせた。いつもにこにこした早川先生の笑顔がなお更である。
国際規則と基本技術についての講義が終わってから、三森先生は中国の棋手に一緒に対局を誘ったら、またあの邵小東さんが演壇に上がってきた。両方は正規の国際試合ルールで対局を始めた。何十回のやりとりで、そばで見ていた早川先生は思わず笑った。三森先生の負けがすでに目に見えたからである。一方、身長がやっと大盤にとどいた邵さんはますます元気が出た。最後に三森さんは自分の負けをみとめた。
インタビューに応じた時に、三森先生はわれわれが三年前に初めて中国に来た時、受講者がわずか三、四十人しかいなかった。今回、来る前に50局の資料を持ってきて、これで絶対足りると思ったが、しかし、来てから資料が少なすぎたので後悔しているという。三森さんは中国の連珠の普及に対して、大喜びを感じると同時に、そのレベルを八才の子供でさえこんなレベルを持っているので、強いと絶賛した。
翌日、東城春江小学校で行われた連珠実演で、日本側の三名名人は特技を出して、次から次へと中国児童に勝ち、"段位名手"の栄誉を保った。しかし、名手たちはこれで中国の巨大潜力のあることが分った。京都院棋手は全部で38人が国際段位を獲得した。日中双方は来年正式に中日対抗戦を行なうことに合意した。中国の連珠ファンたちは自信満々で五目並べの発祥地としての棋手がいつか必ず世界一流のレベルに達するという。
新理事長に早川氏
日本連珠社
社団法人日本連珠社は1日、東京・中野区の同連珠社で理事会を開き、高齢のため辞任した三上繁太郎理事長の後任に京都在住の早川嘉美副理事長を選んだ。
早川新理事長は52歳、連珠八段。現在、連珠名人位を争っている河村典彦名人、挑戦者・長谷川一人九段をはじめ幾多の高段棋士を育成。また、ロシア、スウェーデン、中国など海外への普及にも尽力、平成元年に連珠世界選手権誕生の原動力になるなど、長年の実績と手腕が評価された。「京都で育った連珠は今、世界で30カ国で親しまれているのに、日本ではジリ貧状態。東京ー大阪の学校クラブを結んだファクシミリ対抗戦を実施するなど愛好者をなんとか倍増したい」と、早川新理事長は抱負を語っている。
(1995.11.2 京都新聞)
海外でブーム
本家日本で連珠再興へ ファクシミリ対戦計画も
(この記事は理事長就任のお祝い記事として掲載されました!)
(1995.11.2 京都新聞)
日本連珠社理事長に就任した 早川嘉美さん =中日新聞&東京新聞
日本連珠社の理事長が箱根越えをするのは初めてのことである。おりから、河村典彦名人の世界選手権奪還などでマスコミの関心を寄せていた頃でもある。
わたしは坂田吾朗さんらに連れられて、マスコミ各社に理事長就任のご挨拶に回った。こんなことなど、連珠界にはかってなかったことである。
朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、産経新聞、共同通信社、時事通信社、NHK…。そして、ご支援いただいていた津島雄二先生、末次一郎先生、河村芳邦先生等々~。
そして、健全な発展を支えるためには、地域の活性化こそ大切との思いから、競技会が行われている各地域を表敬訪問した。地元阪神はもとより、青森、東京、神奈川、浜松、富山、広島、熊本と…。
その結果、マスコミ界からの関心を取り付けることに成功、次つぎと大きな報道につながっていったのである。そして、河村典彦名人の名人防衛の就任式典において、京都ーラトビアを結ぶリアルタイムによるネット対局を実現したのである。いまでこそ、日常ごとになっているが当時はセンセーションなことであり、各紙が大きなスペースをとって報道合戦を繰り広げた。
私の思い描いていた文化の逆輸入(いったん輸出して、それを輸入する)の実現に大きく近づいたといってよいだろう。この動きが続いていればなぁ~。
次回以降にー。