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「連珠を世界に!」ロマンの旅 8

83年7月、スウェーデンから、トミー・マルテル・ファミリーをお迎えした。
東京での日程を終えたマルテルさん一行は、翌17日、我々の待つ京都に到着した。
私はソビエトのウラジミール・サプロノフさんと約束した「連珠を世界に!」の思いを込めて、ささやかながらも精一杯のスケジュールを立案・実行した。
また、せっかくのこの機会には連珠界という器(うつわ)の中だけのアッピールではまったく口惜しいので、対外活動にも全力を注いで取り組んだ。今でも、連珠界の発展はこの考えなくしてあり得ないと確信している。
『夕刊フジ』の連載から抜粋のあと、マルテルさんのメッセージと各紙に報道された記事を掲載しておきます。
*当時、『夕刊フジ』には週4回連珠のコラムが連載されていた。執筆は筆者。

日本・スウェーデン親善大会から

マルテルさん一行は、筆者らが迎えるなか、元気に京都に到着。筆者は7ヶ月ぶりの再会をことのほかうれしく、心強く感じたものである。筆者の世界に描く夢が、より大きくなったように思う。
マルテルさんは旅のつかれをとる間もなく、筆者宅に直行。京都のメンバーと懇談のあと、少年たちの待ち構える泉涌寺少年連珠クラブの練習会に顔を出した。

少年30余人の拍手に迎えられたマルテルさんは、東京とは違った歓迎ぶりに満足の体。地元の新聞記者や少年たちの熱い視線のなか、早速、今年の少年連珠チャンピオン、一橋小6年の原君と対局することになった。
マルテル「こんなに多くの子供たちが連珠を楽しんでいるのは、まだスウェーデンでは見られない光景です。日本で得た知識を生かし、普及に力を注ぎたい」

局譜明けて翌18日は、京都市を表敬訪問。応対した城守助役と記念対局をくり広げた。
少年のころに五目並べに興じて以来、30年ぶりという城守助役の着手はなかなかのもので、文字通りの熱戦。結果はご覧のとおり、白36でX点三々禁となり、マルテル二段が勝ったが、助役のうまさをマルテル二段が急所をとらえて、これを上回った好局であった。

京都市助役と記念対局するマルテルさん
京都市助役と記念対局するマルテルさん(右端)
左端は筆者

マルテル「グッドプレイヤー」
助役「なるほどなぁ。こっちから止めるべきやったんやなあ」
早川八段「互角の戦いをした助役の腕は相当なものです」
助役「石はどうしているんですか?」
マルテル「現在では日本から取り寄せている。数年前までは紙に書いてやっていた」
助役「どういうところが興味をひくんでしょう」
マルテル「ロジカルな考え方が展開できる。スリルある点、一つの競技ですから、戦いという面白さがある」
助役「こういうゲームが海外ではやっているとは知らなかった。子供のころ、ずいぶんやった」
マルテル「スウェーデンでもそうだ」

今回の私どもの心意気を正面から受け止めて下さった助役に対し、心から感謝申し上げたい。

京都市の助役と対局を終えたマルテルさんは、その後も精力的に活動を続けた。18日午後は、京都市立高野中学校に連珠クラブを尋ね、夜は大変関心を寄せていた“そろばん”(*)塾、京都誠珠会本部教室に妙技の見学に出かけた。

*「そろばん」は筆者が初めてスウェーデンを訪れたとき、日本の文化の一つとして紹介、親子で実演披露した。これが数学教師としてのマルテルさんに大変な関心を呼び、ぜひ妙技を見たい!ということで、お連れしたものである。因みに筆者親子は、ともにソロバン二段。

20日朝は、筆者が講師を務めていた東山老人福祉センターの連珠教室に参加。午後からは某メーカーが開発して近日発売することになっている連珠プログラム(テレビ)のモニターを見学したあと、古書籍に目を通すといった具合。
もちろん、この間にも京都のメンバーとの懇談や練習対局にも余念がなかったのである。

さて、7月22日、京都商工会議所において、その総決算「日ス親善京都大会」の開始である。入江海三大会委員長が「連珠発祥の地において、私どもの情熱と夢をこめて本大会の開会を宣言いたします」の挨拶。大会が始まった。

この大会に参加したのは20名だが、実にバラエティに富んでいた。主な参加者を紹介してみよう。
最高齢は81歳の本田正石翁(八段=神奈川)で、最年少は17歳の富森滋五段(大阪)。一番北からの参加は、千葉の大野晙象五段(千葉大名誉教授)、一番南は福岡から、トップ棋士にランクされて久しい小塚和人七段がかけつけた。さらに、女性NO の誉れ高い松尾敏子初段(大阪)や、松葉杖をついて大阪・堺市から田中康彦初段もかけつけた。

二日間にわたった親善大会は、長谷川四段の優勝、マルテル二段は14位となり、まずまずの結果だったろうか。次年度は、京都を中心として大挙訪スすることを約して、盛会裏に幕を閉めた。

  (2)小塚和人七段 (3)浅田真司四段 (4)富森滋五段 (5)中村行太郎四段
  (6)小磯繁正五段 (7)勝良昌司三段 (8)大野晙象五段 (9)西園典生初段
  (10)奥村典彦五段 (11)大塚嘉則三段 (12)松尾敏子初段 (14)飯尾義弘五段

マルテルファミリーを囲んで記念撮影
マルテルファミリーを囲んで記念撮影

  
この親善大会を機に、まずは国内に国際普及のロマンを伝えることができたと思っている。事実、この大会を機に各地に国際普及に対する支援者が見え始めたのである。

日本訪問に際して    T・マルテル

私の両親は、ルファチャックと呼ばれる、五目並べのスウェーデン版をよくしていました。私も両親から教わり、小学校の頃は何度か打ったように思います。しかし、五目並べの団体があるのかどうかもわかりませんでしたし、五目並べのことを本で調べてみても、その甲斐なく終わってしまいました。そして時々、興味がわいたときに打つ程度になりました。それで、いわゆる論理ゲームがしたくなれば、あちこちのチェスクラブに回ることで満足していました。

でも、これまで、五目並べを打つたびに、これは私のゲームだと思っていました。しかし、残念ながら大会を催されているのを知りませんでした。また、私は高校の数学と商業の教師になるために、数学を学んできました。教師になる前年に、学校で五目並べの大きな大会が開かれることを聞きました。その頃、私は、周囲の誰と打っても大抵勝っていたので、かなり天狗になっていました。そこで大会が終わったあと、優勝者に挑戦してみましたが、17対3で負かされてしまいました。かくして、私は、五目並べに大層興味を持つようになり、私がそれまでに出会った中で最大の熱心家であり、この大会の優勝者でもあるアルフ・ドウルグレンから、まだまだ勉強しなければならないと知りました。彼も始めのうちは友人と楽しんでいたけれども、その当時、団体があるのを知らなかったにもかかわらず、独自に多くの大会を実施し、彼の異様とも言える意気込みによって、多くの人々が大会に参加するようになっていました。

私が彼と初めてあったのは、75年の1月4日でしたが、スウェーデン五目連盟のことを知ったのは77年11月のことでした。この連盟は25年前に設立されたのもかかわらず、無名の存在となっており、新聞紙上に大会など多くの企画を発表しているものの、一般の人にはまだあまり知られていなかったのでした。しかし、ドウルグレンはスウェーデン五目連盟に入ってから、他のメンバーと共に、この連盟が人々に知られ大切にされるように努力してきました。私はますます興味を持つようになり、2?3年のうちにはドウルグレン(現在のスウェーデン連珠連盟会長)と連珠連盟を作って活動するようになりました。

77年以後、私達はますます強くなり、ついに黒がほとんど勝ってしまうために、多くの人々が五目並べをあきたらなくなってきました。78年と79年はドウルグレンがスウェーデンの五目のチャンピオンとなり、80年には私がその座に就きました。80年までは、黒白共に禁手はなく、盤も実際的にはほとんど無限大のものを用いるという、まったく自由なルールでした。今でも、五目並べの場合は、ます目の中に印をつけて行っています。〇や×を書いて着手を示すのです。全く自由に行われる五目並べでは、あまりにも黒が有利なので、もし、五目並べができなくなったらどうしようかという討論がスウェーデンで活発に行われていました。

そんな時、79年の2月に私は井川亘氏から初めて手紙を受け取りました。そしてその手紙には、連珠をいう五目並べ愛好者のジレンマを解決する方法が記してありました。そして井川さんが最初の連珠と五目並べの選手権(通信戦)を開かれたのと同じ81年1月に、私達は初の連珠選手権を開き、私が優勝しました。そしてこの大会の後も、どんどん競技会を企画し、今では1年に、スウェーデン・オープンを含む五つの全国連珠大会、五つの全国五目並べ大会を催しています。五目並べ大会のルールはそれぞれ多少異なります。二つの大会では盤は無限大、黒白共に禁手なしという以前からのルールを使っていますし、スウェーデン五目選手権を含む三つの大会では、黒3を天元から大桂馬に打つというルールを採用しています。多くの連珠大会では連珠盤と碁石を使っていますが、一部には、紙のます目の中に印をつける方がよいという選手もいます。私は他のスウェーデンの選手達を同様に、ますます、連珠に興味を持つようになりました。

* この選手権の開催に際し、井川さんから日本連珠社に後援申請が出されましたが、国内普及もままならないのに、なぜいま国際普及なのか、と却下されています。当時、筆者はもっとも若い平理事でしたが、アゼンとする思いで「なぜ、井川さんの思いを受け止めないのか」と激しく迫りましたが、残念ながらまるで取り上げてもらうことはありませんでした。間もなく、井川さんが連珠界から去ってしまわれましたが、今なお、悔やまれる出来事です。このこともあって、筆者が国際普及に乗り出すときは相当の覚悟を決めてスタートを切ったのです。

昨年12月に国際大会として「スウェーデン・オープン国際連珠大会」を開催するにあたって、日本から4名の選手をお迎えしすることができたのを、大変うれしく思っています。その大会でスウェーデンの選手達は多くのことを学び、また、感銘を受けました。それ以来、連珠の大会では常に後手指定と五珠二題打ちという二つのルールを採用しています。
現在、スウェーデンでは、五目並べではステファン・ヤンソンが、連珠ではイングラ・スンドリングがトップの座にいます。同封したのは今年の5月に行われた、スウェーデン連珠選手権の棋譜集です。これらの棋譜を見てもわかるように、スウェーデンの選手は上達するにはまだまだ勉強が必要です。
私はスウェーデン連珠連盟のスペシャル・チェアマンです。そして、この愛すべきゲームをもっと学びたいと思っていたので、このゲームの祖国を訪ねることが私の長年の夢でした。ともかく、こうして日本に来られて大変光栄に思います。

ここで、私の自己紹介をしましょう。私は36歳、妻マーガリータとの間に二人の娘があります。今回の旅行に同行したのは8歳のイングラです。下の娘はアネットといって3歳です。
現在、私は高校で数学と商業の教師をすると共に、美容業界で卸売り業を営んでいます。教師になる前には、2年ほど、財産の差し押さえ関係の仕事をしたり、3年ほどは、所得税返還の監査官や会計監査官をやっておりました。
第1回の「スウェーデン・オープン国際連珠大会」の後、私は早川嘉美氏の推薦で2段をいただきました。対局するときには、この免状に恥じないようにと思っています。今回の日本訪問では、連珠に関して多くのことを知ることができればと思っています。

この機会に日本の皆さまが、今年12月3日、4日の両日に開かれます「スウェーデン・オープン国際連珠大会」に参加されますよう、お願いします。申し込み締め切りは11月1日です。

* この文章はマルテル氏が来日にあたって書かれた“WHY DID I TRAVER TO JAPAN”の全訳です。(長谷川一人訳)

朝日新聞・京都新聞記事