明鏡
明鏡とは、鏡が磨かれてけがれのない状態。すなわち、心の中が曇りのない鏡のようなさまをいう。
人はみな、見えるところだけを磨こうとするが、こころの中を磨くことを忘れてはいまいか? 明鏡は心の“明鏡”をいうものであることはいうまでもないだろう。
「明鏡止水」(めいきょうしすい)ともいう。ふつう、水は止まっていると汚れ、汚水となるが、この場合は露(つゆ)の水滴のように、汚れのない状態をいう。
『撓のひびき』より転載してみる。
*『撓のひびき』は瀬尾謙一先生著書
「鍛えにきたえた末は、もとの無にかえり、ただの人でなければならない。味噌の味噌くさきは、上味噌にあらず。兵法者の兵法面ほど、みにくいものはない。武蔵は好んで「寒月月を帯びて、澄むこと鏡の如し」の句を書いた。これこそ、多年練磨した、精神や技術が、明鏡止水の妙域に達したのであろう」
最近のできごとから
8月11日から10日間、事務所にインターンシップ生がやってきた。毎夏、インターンシップ生を受け入れて8年目になる。
税理士事務所にやってくるのだから、税理士の日常体験や中小企業トップからの期待、要望を見てもらうことが、最大の目的である。これには、議論を挟む余地はないが、私は「働く姿勢」「社会への思い」「人生の生き方」をできるかぎり伝えたいと思って迎えている。いつも思うのだが、インターンシップにやってくる若者は、もうそれだけで既に優秀というレッテルを貼ってもよいくらいで、期待に応える器を持っている者が多い。
今回も、税務署長、金融機関支店長らに面会をもとめ、懇談の機会を与えていただいた。また、すっかり恒例になった感があるが、サマーセミナーの司会を担当させた。司会を担当させるのは、学びとはどういうことか、を実体験させるためである。
司会というわずかな時間のために、どれだけの推敲・訓練が必要なのか。事務所総出で指導に当たる。「声が小さい」「声が前に出ていない」「顔が下を向きすぎだ」「若さが足りない」「もう少し自分のことも話してみたらどうか」「失敗は恐れなくてもよい」「そつのない立派な司会など誰も期待していない。それより、どれだけ若さが出せるか」等々かしましい。
押さえに私が最後に立ち会う。
「だれも上手にやって欲しいなど思っていない。出席いただく方もまったく同じだと思う。失敗を誰も責めない。もし責められるとしたら、所長である私であるが、そんな事はこれっぽっちも考えないでよい。そんなことを心配するなら、司会役を与えない。まったくないと断言してもいい。それより、出席者の一番うらやむ、若さをどれだけ出せるか。〈精一杯〉がご出席いただく方に、どれだけの感動を呼び起こすか。これを味わって欲しい。
この様子では、きっとお褒めいただくだろう。そのときは、ありがとうございます、で受けること。間違っても〈いえいえ、まだまだです〉や〈いやダメです〉などを言わないように!」と念を押しておきました。
さて、どうだったでしょう。
「明鏡」の心にはそうやすやすとなれるものではないけれども、今の自分を精一杯出そうとする事はとても大切だと想うのです。
セミナー参加者のお便りからご紹介してみたい。
今回も何から何まで素晴らしかったですが、今、心に残っているNo1は、インターンシップの学生さんのういういしさでした。
随分忘れていた若い頃のひたむきな気持ちを思い起こさせてもらい、今日から私もマイナス25歳の気持ちで働かせてもらいます。このような機会を与えていただいた先生に心から感謝しております。御礼まで。
Yさんから